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9割の人が知らない努力と我慢の違い「我慢」は闇の世界だった!

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我慢と努力は、目標を達成し、仕事や人生で成功するための不可欠な要素です。

この記事では、目標に向かって前進するためにどのように行動し、勉強し、そして日々の仕事に取り組むべきかを詳細に解説します。

また、他人との違いを受け入れ、過去の経験から学び、現状に満足せず常に成長を目指すことの意味についても考察します。エンジニア、トレーナー、ピアニストなど、あらゆる職業において、我慢と努力を正しく認識することがいかに成功へと導くかの具体例を通じながら解説していきます。

UG
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努力とは?

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努力とは自分のしたいこと(行動)を実現するための手段(ツール)です。努力の意味を調べてみると「目標の実現のため、心身を労してつとめること。ほねをおること。」とあります。一見、我慢と同じように思う人がいるかもしれませんが、

目標が存在し現状自体が、目標達成のための行動であるならば「〇〇のために努力した」「努力が実った」という表現からそれは努力と言えます。また努力は感情的には目標達成のための前向きな感情によって成り立ちます。以上のことから努力は

「目標達成のための行動であって現状を肯定し改善する」が前提であると言えるのではないでしょうか

ここでのポイントは「現状を肯定する」ということです。これは後に出てくる我慢との大きさな違いです。

では、次に我慢の意味を見てみます。ちょっと衝撃ですw

我慢とは?

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辛い事を耐え忍ぶこと。という考え方一般的です。一見すると「努力」と同じで目標達成のために歯を食いしばって進むことのように思いますが、努力は報われることが前提ですが、我慢は報われることはありません。

なぜ我慢は報われないのでしょうか?ここでは報われるという言葉の意味を考えてみるとその意味が見えてきます。

報われるとは?

「日々の努力や、苦労したことに対して、それ相応の結果や成功を得ること」

確かに「我慢が報われる」とは聞かれませんし、「我慢が実った」という言葉も聞きません。このことからも努力は行動し現状にはない新しい結果が得られることに対して我慢とは現状で停滞を意味しているように受け取れます。

耐え忍ぶという点においては「努力と我慢」のプロセスは大きく異なりません。

しかし、先程もお伝えしたように我慢に結果がない。つまり我慢という行動自体に達成感が生まれません。その結果、我慢そのもののプロセス(過程)に不満がでます。なぜならば、行動に意味が見いだせないからです。「なんのためにこれやってるんんだろう」という感覚に近いものです。

行動の意味がわかると現状を改善するために「努力」をすることができます。

つまり「努力と我慢の差」は目的を見いだせるかどうかの違いとも言えます。

たとえば、お菓子を買ってほしいと親に捏ねる子供に我慢を強要します。子供はこの我慢の行動の意味がわかりません。目の前にほしいものがあってそれを求めている。それがわからないとどういう行動にでるか?「買って!買って!」とダダを捏ねます。しかし親が「今日はカレーだから今お菓子を買って食べたら美味しいカレーがお腹いっぱいになって食べられないわよ」

これに納得できれば子供は行動の意味を「我慢」から「努力」に変換できます。もちろん、これはシンプルな一例にしか過ぎないので、その都度「我慢」「努力」のベクトルを正しく示す必要があります。

これをせずに「言うこと聞かない子はご飯抜き!」とか「ただ我慢しなさい」といういうだけでは子供は納得できません。納得できないとどうなるか?「不満」です。これは子供を例にした話ですが、大人が社会などで「努力と我慢の差」を理解できずにいると、我慢にベクトルが向いてしまいます。

これはどういうことかというと、

努力は現状改善の行動の意味を考える必要があります。その考え方に伴う行動には多かれ少なかれ結果(責任)が伴います。

つまり

「うまく行ったか。行かなかったか」結果に対して時間を対価とした場合うまく行かなかった場合は「無駄な時間を過ごしてしまった」という感じです。しかし我慢は現状維持を前提しているわけなので、行動しているわけではありません。そこには結果は今まで通りです。なので我慢による結果に対する責任は存在しません。

結果は人によっては「痛み」と捉えるかもしれません。

このことからもどちらが行動しやすいのか?と考えると痛みを伴わない我慢の方が結果自然に出来るように思います。また我慢の状態にあるときに他人と比較するケースもよくあります。「私だけやらされている」「同じことをやっても、〇〇さんはうまくできてしまう」

我慢のベクトルの多くは「他人と比較した自分」にあることが多いです。我慢ばかりしていると「自分が可哀想」と思う気持ちになるのと同時に「なんでオレより(私より)あいつは楽してるんだ!」と思うようになります。

思い当たることありませんか?

我慢とは相手を蔑んだ味方

ではなぜこういう考え方に至るのか?それは我慢の意味を考えるとわかります。

我慢(がまん)とは、仏教の煩悩の一つ。強い自己意識から起こす慢心のこと。自分を高く見て他人を軽視する心

「なんでオレ(私)ばかり我慢しなきゃいけないんだ」「あいつは楽している!」「オレの(私のほうが)絶対上にきまっている」だってこれだけ我慢してる(できている)んだから、我慢している自分が一番エライ

我慢をすると愚痴が出てくるのはこういう理由からだと思います。

愚痴とは?

愚かなこと。無知によって惑わされ,すべての事象に関してその真理をみない心の状態をいう。

我慢することで自分は人より上に立っていると勘違いする当然、その人は努力の結果を得いているわけではないので、努力し続けている人より「無知」であり、現状の「事象」に関してそれ以上の深さを求めない(真理を探求しない)

つまり愚痴多き人は「我慢」によって生きていると解釈することができそうです。

現在、

一般的に自分自身を抑制し、また耐えるという「忍耐」の意味あいで用いられる「我慢する」は、もともと「我意を張る」などという強情な心意を介した転用で、近世後期から言われるようになったとされています。

先にも書きましたが「我慢」という行動は停滞(現状維持)です。我慢で苦しんでいる人は、その行動に明確な意図を見出すことで、努力に転換することで改善できる可能性があります。

努力には充実感が生まれます。我慢には不満が生まれます。

「努力が報われない」と嘆いてる人それは努力でしょうか?それとも我慢でしょうか?

我慢しない方法

では我慢しないためには何が必要なのでしょうか?それはベクトルを変えることです。なぜダイエットをするのか?女性の場合は「美容」などがあるかもしれません。それ以上に「美しくなってどうしたいのか?」本当にそのダイエットはあなたが望むものなのか?周りの空気に自分が無理やり合わせているだけではないのか?

と考えます。そもそも人それぞの個性は美容によって作られるものではありません。そのダイエットしたから美しいのはダイエットによって磨かれた内面の努力が形になって現れているからです。

つまり、本当の目的と思っていたものが実はそうでなかったときに人は無意識のうちに我慢をし始めます。

これは自分と対話することで気づくことができる人もいますし、HowTo本(啓発書)などで気づける人もいます。

私の場合は、有名な作曲家に作曲を教えてもらっていたときにものすごいダメ出しが数ヶ月間続きました。先生は別に私を無意味に攻撃したいわけではありません。すべての言動に意味はあります。ですが、それを上手く理解できない私に先生は「なんで、みんな普通にできることをしないの?出来ないの? えっ?そんな事聴く?そんなのきいいたの数十年やっててあなたが初めてだよ」と言われ続けても

「私が馬鹿だからだ。我慢だ。我慢すればいいんだ」と思い込み理解に務めました。しかし、そのストレスはずっと寝ても冷めても頭に残り続けます。その結果、家族との会話もギクシャクするようになり、

「もうやめたら?作るプロかもしれないけど、教えるプロでない人もいるよ?」という家族の言葉にハッとして「そうだな」と思いやめました。もちろんやめられない環境で我慢をしている人もいるでしょう。しかし、そこにいる本当の価値を見出せないと「努力」することはできなくなります。

努力でしか人は成長しません。

苦痛進行における我慢の正当化

日本人は我慢を正当化するために苦痛進行という呼べるものがあると感じる人は少ないでしょう。

我慢することは美徳=人間的成長これ自体を全否定するつもりはありませんが、我慢から得られるものの多さと努力から得られるものそれらを比べたときにどちらが、自分の人生にとってより良いものか?と考えたら答えは自ずと出てくると思います

我慢と苦労は同じ?

苦労は買ってでもしろとよくいわれます確かに苦労には価値があります。それは自分が知らないことへの挑戦が後に経験になるからです。今すぐできてなくても、そのときの経験が他のことにも応用できたという経験をした人は少ないでしょう。

しかし、この苦労もやはり「努力」と見るか「我慢」と見るかで意味が変わってきます。努力も我慢も行動という点おいてとちらも精神力と体力を使います。努力の場合は目的が明確であるために、なんとか力を振り絞ろうという気持ちになれますが我慢の場合は振り絞るエネルギーに限界があります。

精神力と体力には限界があります。意味のあるための努力と意味のない我慢どちらが有限のエネルギーを割り当てたいかと言われたらおそらく前者ではないでしょうか?

苦労から学ぶ経験の価値を見いだせない人もいると思います。過去、現在において次のような経験をしたとします。「借金まみれになった」「彼女に振られた」「ドロボーに入られた」天災人災に関わらず「自分にふりかかった結果」をなんでもかんでも努力でプラス思考に持っていくことは難しいですし、その必要はありません。

しかし、その結果を踏まえたうえで現状改善の努力を選ぶことでその後の未来は大きく変わります。

「そんなの簡単じゃない!詭弁だ!」という人も多いでしょう。「あなたには私の何がわかるんだ!」と過去のつらい経験を持ち出す人もいると思います。これに対して心理学者アドラーは次のように言っています。

「過去(歴史)は存在していない」

過去は本人によっていくらでも改ざんできてしまうからです。学校で学んでいる歴史でさえ新しい資料の発見によって新事実が見つかります。その瞬間に今まで知っていた過去は書き換えられることになります。

また、個人の過去においても気づかないうちに「物事のある側面」だけを見て「絶対これが正解だ」と思い込んでいても、損得なしに記憶を遡ることで新たな一面が見えてくるケースも多々あります。これは本人さえも忘れていたというケースもあります。

以上のことから絶対的に正しい過去は検証の使用がないということから「過去は存在していない」としているのが心理学者アドラーの見解です。苦労は目的があれば努力に変わりますし、振り返ったときに「あの苦労のおかげ」と言えるのは現状を肯定できるに至ったからです。この現状を肯定するというのは「我慢」ではなく「努力」によってしかできません。

今が不幸「我慢」であれば、振り返った苦労を「報われている」とは誰も思いません。自分に起きた「理不尽な過去」を現在の我慢で乗り切ることはできません。それができるのは健全な「努力」だけです。

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まとめ

ほとんどの人が知らない我慢と努力の違いいかがでしたか?最近知人の相談で「努力が報われない」という言葉を聴いて調べた結果でしたが、自分にとっても衝撃でした。努力と我慢を間違えずに使いたいもんですね。

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