グーグルで「DTM」を検索すると必ず目に飛び込んでくるパワーワードそれが「#DTM作曲をなめるな」というハッシュタグです。これを見ると「あーなんかDTMって難しそう」「そうだよなー音楽をつくるなんて才能を持った人間がやることだよな」
「すみません始める前から作曲舐めてました。やめます」
なんて思ったりする人も多いのではないでしょうか?
しかし、本質は全く違います。この「#DTM作曲をなめるな」というハッシュタグはDTM初心者に書かれたものではありませんしDTM初心者の「よし頑張るぞ!」という気持ちを潰したいものでもありません。
このハッシュタグは2014年に流行ったものですが、なぜかそこから独り歩きしてしまい、DTM初心者に対して書かれたもののように存在してしまっているので。このハッシュタグの本質を元のツイートを参考に私なりの考えを解説していきます。
「#DTM作曲なめるな」の本当の意味
#DTM作曲なめるなは2014年にツイートされました。伝えたかったことの本質は以下にあります。
「いい音楽の「存在比率」が絶望的に少なくなってきている現状をなんとかして打破・回復させたい。」
「「音楽になっていない稚拙な音楽」を商品として売ろうとする不届きな人間を無くしたい。」
引用:k-masera.のブログ#DTM作曲をなめるな 一連の流れにつきまして①より
(リンク先のブログはHTTPSで保護されていないためここではリンクは貼りません。気になる方は引用の名前を検索してただければ原文の記事を閲覧することは可能です)
しかし、あまりのパワーの強いハッシュタグは本質とは別の角度で広がります。そのことについてツイートした本人も以下のように語っています。
2014年 #DTM作曲をなめるな のハッシュタグにて大きな反響を得る
しかし、伝えたかった本質とは違い「音楽理論の是非」に論点が集中してしまった
詳しくはこちらに詳細があります【なんぞこの修羅界】 #DTM作曲をなめるな ハッシュタグまとめ
では「#DTM作曲なめるな」とは一体なのなのか?初心者やDTMを趣味でやっている人達を全否定するものなのか?
それらを解説していきます。
「#DTM作曲なめるな」はボカロ、東方、同人音楽を否定しているわけではない
ツイートからもわかるように、DTMにおける創作を否定しているわけではありません。しかし、簡単にできてしまった音楽をプロレベルと思い込み、それらが普通にプロの音楽業界の末端に入ってくることに警鐘をならしたいということです。
何をそんなに怒りの波動モードなのだと疑問の方もいらっしゃると思うので、少しづつこのタグで話していきますね。誤解なくして欲しいのはボカロPがダメとは一言もいってません。ボカロ、ニコ動、東方、同人は素晴らしいムーブメントと思ってます。 #DTM作曲をなめるな
— K Masera@秋M3 コ-17 Techno (@K_MASERA) November 5, 2014
そういった、作曲の裾野が広がること、動画投稿など自分を表現できる手段が増えたことはとても素晴らしい。そこから職業作曲家を目指していくのもいいんだけどあまりにも短絡思考輩が増えすぎてしまっていることに警鐘を鳴らしたいわけです。 #DTM作曲をなめるな
— K Masera@秋M3 コ-17 Techno (@K_MASERA) November 5, 2014
プレゼン用Demo楽曲によくある。明らかに自分で歌って確かめてないメロディ、実力以上のコード進行、転調で無茶な展開楽曲。「美味しいと思うんでこんな組み合わせで作りました、試食してないですけど」ってディナー出されたら怒るだろ。音楽はそれ以上にシビアだぞ。#DTM作曲をなめるな
— K Masera@秋M3 コ-17 Techno (@K_MASERA) November 6, 2014
そして色々なツイートがあるなかで最終的には以下のようにまとめています。
ほんとうに誤解を無くしたいのだが、「理論で音楽を作れ」とはみじんも言ってない。音楽を作るにあたり理論の知識がとても有効であると伝えたい。感情から音楽が生まれるのは当たり前で、理論は感情を音の響きにするときの有効なインターフェースの役割になるんだと伝えたい #DTM作曲をなめるな
— K Masera@秋M3 コ-17 Techno (@K_MASERA) November 8, 2014
つまり趣味の世界で少しできると思ってプロの世界に片足を突っ込もうとするにはあまりに稚拙!そんなにプロの音楽は甘くないんだ!ということをいいたいわけです。
ここで大切なのは自分には音楽的センスも才能ないと思う必要はありません。あくまで知識も経験もすべては積み重ねによって成長していくものです。
私だって最初は全然うまく行かなくて年間に何百というオーディションを受けては落ちていたくらいですから
DTM作曲に理論は必要なのか?
「#DTM作曲なめるな」では「音楽理論の有無」が議論の焦点となり、「理論を知らないのは作曲を軽視している」と解釈されました。
しかし、理論がなくても曲を作ることは可能で、実際に理論に反した名曲も存在します(例:ユニゾンのベースとメロディ、連続五度など)。それらはアーティストの感性や時代背景で評価された少数例です。一方で、多くの楽曲は「気持ちの良い音楽」を生む理論に基づいているのは事実です。
みんなが気持ちよくなれることを知るというのがJPOP的な音楽理論という考え方だよ。
では作曲初心者がそれらを持ち合わせているのか?と言われたら当然Noです。それらは作曲を重ねるたびに身に着けていくものであり、最初からそれがないとDTM作曲をやってはいけないということではありません。
「えっ?結局理論いるの?」と思うかもしれませんが、理論を学んで曲を書くのではなく、書き続けることで音楽にあった余分な贅肉が削ぎ落とされていく研磨されていくような感覚だと思ってください。ある程度曲を書いた自分の曲を振り返ると「うわーこれはないなー」と思うのは理論的になりつつある証拠です。
これは成長している証拠なんだ!!
ではなぜそのようになっていくのか?
それは、自分のための音楽から誰かに聴いてももらいたい音楽に変わっていくからだと私は考えています。
その聴いてもらいたいをもっと突き詰めるとそこには「王道」という世界があり、その王道が王道たる所以を知り、そこにはどんな理論があるのか?ということを気づき始めます。
この世界を高い次元で理解しているのがプロになるわけです。
しかし、これらを都合の言いように受け止めているアマチュアの作曲家、その作曲家をコンペに受かるためにかき集めているそういう人達がいる限り今後の日本の音楽はさらに衰退していくことを懸念しているのが#作曲をなめるな に集約されているのでしょう。
なので、DTM初心者の人にいいたいのは「DTMで作曲を始めるのに理論は必要ありません」ただ「書き続けることで多くの人に聞いてもらうためには何が必要なのか」と考えたとき、そこには王道という世界があり、王道には王道の理論が存在しているということを知っておいても良いと思います。
王道って言葉はちょっと安っぽいイメージあったけれどそうじゃないんだね。みんなが楽しめるための音楽って解釈なんだ。
DTMに向いている人とそうでない人
「#DTM作曲なめるな」という言葉に何かしらショックを受けた人は「果たして自分はDTMに向いているのか?
と思うかもしれません。ネットではDTMに向いている人とそうでない人は次のように分けられることが多いです。
DTMに向いている人の特徴 | DTMに向いていない人の特徴 |
---|---|
明確な目標を持っている | 他人からの評価を過度に気にする |
一人で作業を進めるのが好き | 新しい技術の習得に消極的 |
問題解決のために情報を収集し学ぶ姿勢がある | 孤独な作業が苦手 |
継続力がある | – |
パソコンの操作やトラブルシューティングが得意 | – |
楽器経験がある | – |
音楽への深い情熱がある | – |
さて、これをみて「あー私は向いているわー(向いてないわー)」と思う人いるかもしれません。でもこれって続けた人が後で自分の答え合わせをするために、さもそれらしい答えを見て「そうそう、私はこれが理由だったから続けられた」と思うだけで、これらの特徴を見て「DTMが続く続かない」と決めつける必要はありません。
やってみて、「自分にあっていれば続くだろうし、嫌であれば続きません」これが真実だと思っています。お金がなくてもプロになった人もいれば、お金があってもプロにならず音楽をやめた人もいます。
DTMが自分にあっているかどうかは他人の視点でなく「自分にあっているかどうか」それを確かめるためには、初めて見て自分で経験するしかないと私は思っています。
まとめ
#DTM作曲をなめるな というハッシュタグは色々な解釈が可能です。ですが、あえて最後に逆説的ですが#作曲をなめろ!ともいいたいです。
自分はDTM作曲なんか余裕!くらいの気持ちで作り、あるときに思いっきり鼻っ柱をおられるのもアリです。そこから「そうかこれじゃ駄目だったのか」と気付き、新しい思考に切り替えるきっかけになることもあります。
大切なのは今の結果に至るまでの経験をどう意味づけするのか?その意味づけのあり方でDTMとの接し方も変わってくるでしょう。
- DTMで作曲を始めるのに理論は必要ない
- 書き続けることで自然と研磨されていく
- より多くの人に聞いてもらいたいと思ったときに何が必要かを理論的に考える