思い通りの曲が書けるDTMerになるための作曲センスの正体と鍛え方

センスという言葉は2つの顔を持っています。一つは「癒やしの魔法」もう一つは「呪い」です。「センスがいいね」と言われたら気分もよくなる褒め言葉として受け止められますが、「センス無いね」と言われたら自分の行動や存在までも否定された気分になるでしょう。作編曲を楽しむ人にとってこの「センス」という言葉にどれだけ振り回されてきた考えるのも嫌になる人も大勢います。

センスとは「生まれた持った才能」みたいなものでしょうか?何でもすぐに作れてしまう特別なスキルなのでしょうか?もしこのように思っているならその考えは今日で終わりにしてください。その考え方自体にはセンスがありません。「センスの正体」を理解すれば誰でもセンスはみにつきます。「センスがないから私はだめなんだ」と落胆をする必要は金輪際ありません。

誰もがほしい。「センスとその正体」を一緒に考えていきましょう。

センスとは何か?(センスの良し悪しとは?)

センスには次の意味合いがあります。

センス単語 センスとは、ラテン語の「sentīre」という単語が語源になっていてこれは、「感じる」を意味する。 英単語として「sense 」と言った場合は「感覚」「人間の五感のうち1つ(味覚、聴覚、触覚、嗅覚、視覚)」「物事の見方や考え方」「感じ方」「意義」「意見」「意識」などを意味する。

もともとは「感覚器」を通しての「感じ方」を意味していたものが拡大解釈されたのちに「物事の見方や捉え方」に発展していきました。「作曲センスがいいなー」とは作られた楽曲に対して「音楽の見方や捉え方(センス)がうまい」を端的に説明していることになります。

では見方や捉え方とはなのでしょうか?「見方や捉え方」には必要なものがあります。それは「知識」です。例えば夜空にうかぶオリオン座を見ても興味がない人からすれば「夜空に光る星」でしかありませんがここに知識があると「オリオン座のベテルギウスは地球から642.5光年離れている。実はこの星はもうないかもしれない」というところまで話が広げられます。しかしこれをセンスと言えるかどうかはそのシチュエーションによります。星に興味がある人のまえでこれを話しをするのとロマンチック雰囲気を求めるデートで話すのとではどちらが「センスがいい」のかは明確だと思います。

音楽においての「センス」もこれと基本は変わりません。つまり音楽をどのように見て捉えているか、というのが音楽センスの正体になります。

センスが良いと言われるのはどういうときかを考えてみると「他人からの評価」が基準になっています。もちろん自分のことを「私ってセンスいいわー」と思ってもいいのですが、主観でセンスを捉えている限りそのセンスが正しいかどうかはわかりません。主観によるセンスの正しさは他人の尺度でしかはかることはできません。

まとめると、センスとは共通認識のうえで成り立つ知識を元にした行動ということになります。

センスがあれば実技はいらない

音楽プロデューサーは音楽を作れなくても音楽を売れる方法を理解できているならば、作曲スキルは必要ありません。最近はミュージシャンがプロデューサーになる人が多いですが昔の音楽プロデューサーは作曲家と同じレベルの作曲スキルを持ち合わせていない人もたくさんいました。その代わりどうすれば音楽が売るためのセンスを持っている人がプロデューサーになっていました。

プロデューサーの役目はその音楽を売ることにあるので過去に売れた音楽や売れなかった音楽との比較によって現状の最適化案を提出し、それに説得力があればいいわけです。

映画監督は専門のプロが作り出したパーツを組み合わせることに長けているだけであって、シナリオはシナリオのプロに任せています。ただ、自分も特化しているスキル(例えば映像をとる人)であればその視点から見た作品ができあがることになります。

作曲家の久石譲が監督した「カルテット」という映画は音楽家のスタンスから見た映画になっています。それがセンスに上書きされる個性になります。

教えるセンスと作るセンスは別物

プロの作曲家が必ずしも教えるのが上手なわけではないのは「教えるためのセンス」を持っていないからです。確かに音楽を作れるわけですからそれをそのまま教えたらいいだけと思うかもしれません。しかし大事なのは正しく伝わって相手が理解したかどうかが教えるセンスです。プロは自分の中で作品として完結すれば問題がないので、いちいち他人に説明するようには考えません。

まさに「作るセンス」です。それゆえに「なんでこんな簡単なことがわからないの?」という話になるケースもあります。もちろんこれはレッスンプロの講師にも言えます。教えるセンスとは相手の理解がゴールです。その目的を主観だけで見てしまうと相手には伝わりません。

主観で物事を解決している人に何かを訪ねて上手く返事ができなかったときに「ほんとセンス無いね」と言われたらそれは聞いた相手に問題がある場合が多いです。

センスとは判断材料

音楽はセンスで作ります。センスがないと作った音楽は誰かを感動させるものにはなりません。こんな言い方をすると「やっぱり私にはセンスがないから」と思ってしまうかもしれませんが、そうではありません。センスとは作る能力ではなく作るために必要な知識です。「絵を描くセンス」「文章を書くセンス」これらの「センス」を「知識」に置き換えるとしっくりくるのではないでしょうか?

作りたい音楽がありそれに必要なセンス(知識)を身につけることの重要性に疑問をもつ人はいないと思います。

初めて作曲をするときに何の知識もない状態で作るのはおそらく不可能です。一見知識がないのにいきなり曲が作れる人がいるのはその人の経験の中で「その音楽を作るために必要な知識を吸収していた」からです。例えば私がDTMをはじめたきっかけはTMネットワークでした。DTMを始めるまでにTMネットワークの曲は何百回と聞いていたでしょう。そしてその聴き込んだ回数が作曲をするためのセンスになっています。そのセンスの精度が高さが作曲のクオリティに繋がります。

よく「作曲したいなら音楽を聞け!」というのは音楽を作るために必要な知識(センス)を増やすためと考えればわかりやすいのではないでしょうか?しかしただ音楽を聴くだけではセンスは磨かれません。多くのDTMerが音楽をたくさん聴いているのにセンスが磨かれないのはそのせいですが、これについてはまた後でお話します。

センスのある人とない人の違い

センスがあると、正しい情報をベースに向かうべきポイントが明確にできます。この正しさとは「個人の思い込みではなく客観的な事実」を含んだ情報のことをいいます。例えばロックというジャンルをを作りたい場合、個人がどうロックを定義つけようが問題はありません。アーティストの発言だったり行動だったり要素は様々です。

しかしこれが「誰かに聴いてもらうための音楽ジャンルとしてのロック」となった場合は主観によるロックは排除する必要が出てきます。なぜならば上記の主観では正しく伝わらなない可能性があるからです。ロックの特徴として老若男女が聞いて「ロックだ」といえる要素は「音の歪み」だと私は思います。

ディストーションサウンドで刻まれた8分音符はとりあえず多くの人の共通言語としてロックらしさがあると思います。これが客観的事実です。しかしこれが主観で考えると「私にとってのロックはSuperSawなどのシンセサウンドで同じ8分刻みしたサウンドです」と思っている場合は、歪んだギターサウンドと同じレベルで老若男女に「ロックらしさが」伝わるか言われたらおそらく伝わりません。なぜなら共通認識ではないからです。

センスとはこの共通認識の理解ともえいます。センスのある人はこの重要性に気づいています。なぜならそれがもっともわかりやすい方法で相手に意図を伝えられる方法とわかっているからです。「でもそんなことばかりだと個性がなくなりませんか?」という疑問が出るのは自然なことですが、個性とセンスを一緒に考えてはいけません。センスとは目的ありきのための知識であって、個性はそれをどう処理するかというプロセスの問題です。さきほど言った、ロックをどう定義するかは個性の問題であってセンスの話ではありません。しかしセンスがあれば「大勢の人が求めている音楽(ロック)の場合でも「どこまでずらせば許されるか?」という個性のさじ加減がセンスになります。

つまりセンスのある人は明確な目的のために必要な知識を身に着けそれを個性で判断します。センスのない人は明確な目的を持たずに必要な知識も持たずに個性で行動します。わかりやすいところで「俺のセンスについてこれないヤツはこなくていい」これがまさにセンスのない人になります。

センスのない人はベースとなる情報が存在しないので今までの自分の経験から得た僅かな情報を頼りに動きます。これを「劣悪なセンス」といいます。もっとわかりやすい言い方をすると判断基準をもたずに決める「カン」ともいえます。それで上手くいときもありますが、常に上手く保証はありません。時代の変化とともにその手法が伝わらなくなるケースも出てきます。センスとは安定を作るためのものとも言えます。

センスのない人は「つねにあてずっぽうな自分のカンの正しさ」を信じて疑いません。それゆえに現状改善はできませんし上達もできません。作曲センスがない人が「かっこいい曲を書きたいと思っても上達できないのは上達するためのセンスを磨くのではなくヤマカンに頼っているからです

センスの鍛え方

本質的な問いと具体化

センスは良質な問いによって鍛えられます。良質な問いとは本質的であるということです。本質的な問とは「WHY〜何故そうなのか?」によって導き出されるものです。たとえば先程のロックを作りたい場合「ロックは歪みである」という答えをだしたとします。これは非常に抽象的な言い方です。では「なぜ、歪みがロックなのか?」という疑問をぶつけます。ここで歪みのサウンドの特徴を考えます。

歪のサウンドはコンプッションの一種なので歪んでいない音と比べると音圧があります。音圧があるということは大きな音として迫力があります。つまりロックサウンドは歪みでによって作られたサウンドの音圧がが特徴的である。という答えが出てきます。もちろんもっと深堀りも可能ですが、「一般的に感じるロック」とそう大差はないでしょう。「でもポップスなどでも歪んだギターはあるよ?でもポップスでしょ?」と考える人もいると思います。これはとてもセンスの良い疑問です。

この疑問がでるのは「ポップスの中のギターサウンド」についてある程度の見解をもっている。つまり知識があるからできるわけです。ポップスをどのようにカテゴリするかで判断も変わりますが「歌詞はポップだけどサウンドはロックより」この定義のサウンドを作りたいためにその要素をポップスの中で使っている。というのが一つの解答例になります

「なぜそうなのか」という問から出てくるのが「抽象的な答えになります」「ロックとは歪みである」ここに疑問をぶつけて「なぜならば」で完結できるところが具体的な答えです。このようにすることでセンスの深さと広さが生まれより高度な状況判断ができるようになります。

知識を増やす(視点を増やす)共通項を探す

知識がふえるとものごとの共通項が見てきます。この共通項を見つける能力が視点です。例えばポップスでもロックでも8ビートというリズムの譜割りは同じ曲はいくらでもあります。しかしこれも視点が増えたから見つけられるようになったわけです。作曲においては「〇〇のような曲を作って」といわれたときに参考曲をどのように処理するかはどのようなセンスがあるかによって決まります。参考曲が「8ビートのギター 打ち込みサウンド 4つ打ち」であるならばこれを抑えてしまえば参考にすべきポイントを抑えたことになります。

この抑えるべきポイントが間違っていると「何が違う」と思われてしまうわけです。「でもどこをどう見ていいかもわからない場合は?」と思った人はその曲の「ジャンル」と「音色」から考えてみます。ジャンルとはリズム的な要素も大きいです。つまり8ビートか16ビートなのか、音は打ち込みサウンドか生バンド的なものなのかどうか、です。

これを曲の雰囲気といいます。よく「雰囲気を似せてほしい」といわれる人は音色とジャンルを意識するところから始めることです。この「雰囲気」の意味を理解する知識が見についたつまりセンスを身に着けたということです。

普通と反対を比較する

普通に対してマイナスイメージを持っている人はおおいです。なぜならそこには「個性がない」というイメージがあるからです。しかし世間で売れている多くのものは「普通」です。ギターも6弦が普通です。ベースも基本は4弦です。石鹸は白い泡がでます。お米も白です。フライパンは基本丸型です。これらに対して「なぜそうなのか」という視点をもつことは「受け入れられている理由」を明確にできます。

7弦ギターもありますがいきなり7弦ギターで音楽を始めるひとは少ないです。なぜならばギターで普通に音楽を楽しむのであれば6弦で十分だからです。ベースもおなじ理由です。6弦ベースを必要なのは普通の音楽ではなく4弦という基本の弦では処理しきれない音楽をするときに用います。

石鹸が白いのは汚れが目立つからです。もし黒い石鹸であれば手の汚れが本当に落ちているか判断しにくいです。逆にそれを逆手にとったのが黒い洗顔フォームでです。これは洗い終わったあとの顔がより白く見えるのがポイントになりました。フライパンに三角がないのは具材を炒めるのに適していないからでしょう。端っこには日が通りにくいと思います。

このように売れているものの多くが「普通」です。その普通を見れるかどうかもセンスが問われるわけです。

音楽で例えるならばJPOPのサウンドはほとんどが同じ型によって作られています。実際売れている音楽には型があります。その型とは「普通である=誰もが楽しめる」ということです。イントロ(サビ)Aメロ-Bメロ-サビ これがもっとも普通であり、多くのリスナーが求めている型です。これは世界によって違う場合もあります。アメリカではAとサビの繰り返しが多いです。日本でこの型が受け要られているのは起承転結がはっきりしているものを求めている国民性にあると言われています。

「普通とはなんら恥じるものではなく人から求められるもの」という認識をもったとき「普遍性」の重要性と難しさを理解できるようになります。これは普通と反対を意識するからこそ身につくセンスです。

それらしいものを作る

センスを鍛えるポイントとして個人的にオススメなのが「それらしいものを作る」です。「えーそれって真似じゃないの?」と思うかもしれませんが、真似でいいんです。真似るという言葉が変化して「学ぶ」になっています。つまりどこまでも真似をすることはそれだけ多くを学んでいるわけです。私は20代のころに「どうやったらもっと〇〇っぽくなるかな?」ばかり考えて音楽を作っていました。

オリジナリティには興味がなく「っぽさを表現する」ことにはまり込んでいました。そこで気がついたのは「この音色を使えば〇〇っぽい」「このメロディの動き方は〇〇だ」と「っぽさ」の多くに気がつくようになりました。このように少しずセンスが磨かれていった結果、プロの作曲家になることもできました。なのでセンスの鍛え方は「っぽさ」を求め作曲することをオススメします。ちなみにこの場合は「っぽさとは〇〇である」が必ずしも正解かどうかをすぐに考える必要はありません。その正解かどうかを考える状態もセンスの強化につながるからです。

音楽以外から学ぶセンス

音楽センスは音楽だけから学ぶものではないとよく聞くと思います。これは抽象度の高い世界での関連性を見つけるトレーニングになるからです。例えば映画における音楽は歌ものと違いシナリオに沿った音楽の付け方が求められます。つまり「悲しいシナリオのときには悲しい曲がつける」というのはセンスです。しかし「悲しいシナリオのときに明るい曲をつける」とシナリオの意味が変わります。

当たり前の話ですが、「ではどれくらい悲しい曲をつけるべきか?」という問いをもつことが重要になります。フルオーケストラで鳴らしたらまるでハリウッドのような雰囲気になる。それが必要であればそれをするべきですが、シナリオに沿った内容を考えればリコーダー1本で奏でる素朴な悲しみがフィットする可能性もあるわけです。

映画からは「なぜそのシーンでその音楽なのか?」「どういう意図があってその曲が作られたのか?」を考えることができるのでセンスを磨き上げるのにとても役立ちます。

これが小節になると「このシーンにはどんな音楽合うのか?」というよりディレクション的なものの見方をする必要があります。これも前後の文脈や主人公の心情などあらゆる要素を考えて音楽をつけるためのセンスが磨かれます。

センスが身につくまでの時間

センスは物理的な量によってある程度は決まりますが、大事なのは本質的な問をどれくらい投げ続けられたかで決まります。音楽を100時間聴いても、本質に迫った聴き方をした10時間の人には劣ります。

センスを身に着けるために「とにかく音楽を聴け」というのは非常に乱暴なアドバイスです。もちろんそこには我武者羅になって本質を手繰り寄せるプロセスを学ぶことの重要性に意味を見出している人もいるかもしれませんが、本質に気付いて次のステップに上がれるならば最初からその道を示しておいてもよいと思います。とくに趣味で作曲をしている人に根性論的なアドバイスをする理由はまったくありません。音楽をつづけて本質を追い求めればいやでも壁にぶつかる時があります。なので悩まなくよいなら無理に悩ませるなよとういのが私の考えです。

クリエイティブ脳の低下

普通を追求することは「多くの人に受けいられる」土壌を理解するために有効な手段ではありますが問題もあります。それはすでに完成された作品の模倣を目的としまうケースです。二匹目のドジョウがいないとはよく言いますが、実際は音楽の世界では二匹目のドジョウはウヨウヨといます。なぜならば「それが普通にある程度売れる」ことがわかっているからです。

普通を学ぶことである程度のセンスを鍛えられますが、頭打ちが来るのも速いです。しかしこの頭打ちに気が付けない人が多いのは「それをしていれば現状はなんとなくこなしていける」という安定感があるからです。

しかしクリエイティブな思考を持たないとあるときにそれが通用しなくなったときに「今が困らない」ためにかけられていたはしごは突如消えてなくなります。

クリエイト(create)は元はラテン語(creare)を語源としたもので、「創造する」という意味があります。 この「創造する」が示すものは、「神が生み出すことや、創始すること」のほかに「人知による創案や、創作すること」という意味もあり、新しい何かを作り出すときに用いられる言葉です。

そのためにもクリエイティブ脳の低下だけは避けないといけませんし、そのために常にセンスを鍛えておく必要があります。

センスのアップグレードについて

センスは時代とともに古くなります。これはトレンドを作るという意識から考えれば想像しやすいです。作曲でいえば80年代の流行曲を書いてヒットを飛ばした作曲家であってもそのセンスが今そのまま通用することはないからです。一番わかりやすい例は90年代のJPOPシーンを作ったTKこと小室哲哉です。彼はヒット曲を作るセンスがありました。しかしTKサウンドの時代にリスナーが飽き、宇多田ヒカルやMISYAなどの新しい歌姫が出てきたところで彼のセンスは止まります。

しかし彼はもう一度自分の時代が来ることを信じていました。しかしその後の彼の足跡を見ればそうでないことがわかります。これは非常に極端な例ですが、センスのアップグレードが正しく行わなかった結果の1つです。彼ほどの天才的な嗅覚をもってすれば時代を作ることができなくても、時代に取り残されないプロデューサーにはなれたはずです。

作家には賞味期限があるという言い方をするのは実際作家ではなく「センス」に賞味期限があることを理解しているかどうかではないでしょうか?

センスが求められる時代(センスが価値になる時代)

日本が1億中流階級を目指した時代にはセンスはいりませんでした。みんながやっていることをやればよい。言われたことだけやればよい。そんな時代がありましたが、それが崩れた今では「センスのある人だけが生き残る」と言われているを聞いたことがあると思います。なぜセンスのある人間が評価される時代になったのかは、「みんなが求める普通が届ききった」からです。YoutubeやブログにSNSなど個人メディアが評価されているのそんな普通でありながらも「普通の中にある個性」に見いだされたからではないかと思います。

メディはテレビはよくも悪くも「普通」を放送し続けます。なぜならばスポンサーがCM料金を支払うおとで番組制作が可能になるからです。ゴールデン番組枠で「普通ではない不適切な内容を連発する番組」を作ったら速攻でスポンサーはおります。だからスポンサーがお金を払いたいと思うえるような視聴率がとれる番組を作り続けるのが今のメディアの本質です

しかし、それ故に新しい番組作りはできなくなり視聴者は飽きて新しいエンターテイメントを求めたところで個性を表現できる個人メディアが現れたことで既存のメディアを脅かす存在になっています。しかし、個人メディアが何をやっても許されるか?という話ではなくやはりある程度の「普遍性」が求められ評価されています。誰もひどい言葉で特定の人や会社を罵倒したYoutubeを見たいとは思いません。「見て読んで楽しかった。明日誰かに話してみたい」と思わせる個人メディが評価されているのはカンで作ったのではなく「センス」によって作られたからだと私は思います。

さいごに

センスは知識である。これがセンスの正体です。そのセンスを鍛えるためには「普通」を学ぶところからスタートします。普通は人に恥じるものでもなく、世の中の仕組みそのものを理解するのと同じです。

作曲センスがないというのは言ってしまえば「音楽を作るために必要な知識が身についていない」だけでです。そして、できない人は「劣悪なセンス」で解決しようと思いますが、それでできる範囲のことはあまりにも小さいです。なので今より作曲スキルをあげたいのであれば「なぜそうなのか?」という本質的な問いによってセンスを鍛える必要があります。WHYはとてもシンプルな疑問ですが、WHYを持てるのであればセンスはいくらでも上達していくことができます。

センスを鍛えることでより深く多角的に物事を見られます。それは趣味だけではなく仕事の面でも大いに役に立ちます。そして常にセンスを意識している、無意識レベルで情報を咀嚼し理解できる「センサー」にわかります。センサーは感度が命です。その感度は何故そうなのか?という問いによって磨かれ続けます。

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